TVアニメ『薄桜鬼』シリーズ ヤマサキオサム監督メールインタビュー
2025年2月24日に開催される「第3回アニマン祭」。創立50周年を迎えるスタジオディーンとのコラボイベントです。数多くの傑作を送り出しているスタジオディーンですが、近年の代表作といえば、TVアニメ『薄桜鬼』シリーズが、そのひとつとなることに異論はないでしょう。
本年度のアニメノマンガノムサシノでは、この『薄桜鬼』をフューチャー。アニマン祭での上映はもちろん、アニメ版キャラクターデザイナーの中嶋敦子さん描き下ろしのキーヴィジュアルも作成しました。
そして、本記事では満を持してTVアニメ『薄桜鬼』シリーズで監督をつとめるヤマサキオサム監督にインタビューを敢行。昨年度に引き続き、たっぷりとお話をお聞きします。
ヤマサキオサム監督のキャリアは高校時代から始まっていた
——本年度もよろしくお願いします。では、さっそくですがヤマサキ監督がアニメ業界に入るきっかけなどから、お話をお聞きしたいと思います。
ヤマサキオサム(以下ヤマサキ):母校である熊本工業高等学校※の先輩に渡辺浩(わたなべひろし 以下わたなべ)さんが居て、入学直後にわたなべさんが会長を務める『アニメーション同好会』に誘われたのが、アニメーターという仕事が有る事を知ったきっかけです。
※熊本県立熊本工業高等学校:選手としては「打撃の神様」と呼ばれ、監督としてはプロ野球史上唯一の「V9」を達成したことで知られる川上哲治に代表される、春夏あわせて44回の甲子園出場を誇る野球部が有名だが、産業デザイン関連学科の充実度も著名。わたなべ、ヤマサキをはじめ多数のクリエイターを輩出している
その年の夏休みには、わたなべさんがスタジオライブ※への就職を決めて来て、「来年からアニメーターになるから」と言う話を聞き、アニメ業界がとても近い業界に感じました。
その後、自分が3年生になった年に、現在スタジオライブの代表でもある神志那弘志くんと、わたなべさんの弟さんが後輩として入学して来て、ふたりとも『アニメーション同好会』に所属してくれました。
※スタジオライブ:芦田豊雄が1976年に設立。作画スタジオとして多数の作品に参加しており、キャラクターデザイン、企画、脚本も手がける
その年の夏休みに私もわたなべさんを頼ってスタジオライブの芦田豊雄さんに会わせてもらい、ポートレートを見てもらったのですが、その時は力不足で就職を決める事は出来ませんでした。
そこで、夏休みが終わると同時に関東圏の就職先を進路指導部の求人票から探し、大日本印刷株式会社への就職を決めました。翌年から大日本印刷でICやLSIの基盤用ネガ原板を造っていたミクロ工場で働きつつ、隔週で来る夜勤明けの半ドン※を利用して、わたなべさんやスタジオライブのスタッフの方に絵の指導を受けに行っていました。
そのお陰で、翌年の1月から中村プロに入社出来る事となり、動画マンとして働き始めたのがこの業界に入った始まりです。しかし、当時1枚100~150円の動画単価で3万円のアパート暮らしはなかなか厳しく、脚気や鳥目になり、死にかけた経験もしましたよ(笑)
※半ドン:半日休みのこと。かつて土曜日は午前中で学校や会社などが終業したいたケースがあり、そうしたものを指す
その後、カナメプロ※に移って『プラレス三四郎』で原画と動画チェックをやりながら、原画を描くための絵コンテ読解のポイントや映像演出の定石について、湯山監督や社内の演出家の方たちから教えてもらい、演出の奥深さを知りました。その事が演出家を目指したいと思ったきっかけです。
『プラレス三四郎』が終わり、カナメプロは『バース』や『幻夢戦記レダ』『ウインダリア』等のOVA作品を作るのですが、経営サイドが内部分裂してしまい会社的にも厳しい状態になった事から、私自身は『バース』が終わった後で完全にフリーランスになりました。
※カナメプロ:かつて存在した制作会社。武上純希、影山楙倫、いのまたむつみ、新房昭之などが所属した
その時、大貫健一さんに誘われて『サンライズの第7スタジオ』で制作が決まっていた『ダーティーペア』に原画マンとして参加する事になり、同時期に葦プロダクションの『超獣機神ダンクーガ』にも参加、羽原信義くんや大張正己くんともそこで知り合いました。
この時期には平野俊弘さんや垣野内成美さん、高橋久美子さん等、多くの優れたアニメ関係者と知り合い、一緒にお仕事をする機会に恵まれました。
『ダーティーペア』の制作が終わり7スタの席が無くなるのを機に大貫さんや大張くん、カナメプロで一緒だった西井くんたちとフリースタジオ『南町奉行所』を設立しました。
その頃はちょうどOVAの黎明期で、AIC等で複数のOVA作品に関わる内にカナメプロの初代社長だった相原さんから「日本ビクターがOVAの企画を募集しているのだが、何かやりたい企画はないかな?」と相談を受け、私が原案を書き、大貫さんにキャラクターデザインをお願いして企画書に纏めたのが『妖刀伝』です。
その後、20代はほぼOVA作品の監督をやっていました。
30代にはPC98やPCエンジン、サターン、プレステーション等のゲーム作品の需要が高まり※、ゲームの専門学校でアニメーションの技術を教えて欲しいとの依頼を受け、ゲーム用のアニメ制作に関わりつつ、専門学校で後続の育成にも関わるようにもなりました。
※編注:1980年代の終わり頃から、パソコン、ゲーム機の性能と技術の向上からコンピューターゲーム内でアニメーション演出が盛んに行われるようになった
——当時のスタジオディーンとは、どのような関係だったのでしょうか
ヤマサキ:私たちの20~30代の頃はフリーのアニメーター同士の交流が盛んで、わたなべさんが3年生で私が1年生の時に、2年生だった熊本工業高等学校の先輩である平田智浩さんが所属していたスタジオ・グラビトン主催のアニメーター交流会等が行われていて、その辺りの流れで中嶋敦子さんとも知り合い、ゲームのキャラデザをお願いしたりしていました。
当時のスタジオディーンは杉並区の西荻窪に在り、社内が迷路のように入り組んでいて「ここで地震や火事が起きたらヤバいな」と思うくらい奥がどうなっているか解らない会社だったんですよ。
なので、中嶋さんとの打ち合わせはもっぱら駅前のルノアールでやっていましたね(笑)
その他は間接的に原画のお手伝いをした事は有りましたが、本格的にスタジオディーンさんとお仕事をしたのは『薄桜鬼』からです。
楽しかったが苦労も多かったTVアニメ『薄桜鬼』
——その『薄桜鬼』ですが、アニメ化はどのような形で始まったのでしょうか
ヤマサキ:私は元来、時代劇好きなので『薄桜鬼』のお話を頂いた時はテンションが上がりました。
原作の藤澤※さんやプロデューサーの小倉さんとも本質的には作品の捉え方が近かったので、結構自由にやらせて頂けた気がします。
※藤澤経清:コンピューターゲームプロデューサー。デザインファクトリー所属。『薄桜鬼』総合プロデューサー
とはいえ、制作当初は藤澤さんがお忙しくてなかなか打ち合わせに参加してもらう事が難しく、初期の『薄桜鬼』のシナリオ打ち※では、相当迷走しました。
※打ち:打合せのこと。元は映画業界の用語。技打ち(撮影の段取り)、本打ち(シナリオ打ち。台本の打合せ)、美打ち(セットなど美術の打合せ)などがある
特に碧血録に入り、オリジナルエピソードが増えてきて、会津戦を描いた19話ではさすがに正解が判らなくなり、ライター陣と一緒にプロデューサーに直談判して藤澤さんに直接打ち合わせに参加してもらうようになりました。
それ以降はすこぶる快適にシナリオが進むようになり、会議後には皆で食事や飲みに出かける頻度も増え、個人的に打ち合わせが楽しみになりました (笑)
画作りの面でも、最初の頃はなかなかこちらの意図する処理がスタッフに浸透せず、時代劇風の画面作りを浸透させるのに、作監さんや撮影さん、美術さんたちメインスタッフの皆さんにはご苦労をお掛けしました。
個人的にも薄桜鬼用に『レイアウト注意事項』などを作成して、アニメーターや演出の方々に監督の意図する画作りを伝えようとしたのですが、ある程度画面の方向性が決まるまでに5~6話迷走した気がします。
しかし、私としてはあの時の精一杯でしたし、放送された後の反響が良かったので今はみんな良くやってくれたと感謝の気持ちでいっぱいです。
特にお気に入りなのは第3期として制作した『黎明録』で、画作りの面では最も熟成している気がしています。
その後、劇場版やOVA版が作られ、原作の方でも新たな隊士たちが増え、2.5次元の舞台化でも人気が出ている事を考えると『薄桜鬼』という原作の魅力を実感させられます。
——主役と言える土方歳三役は三木眞一郎さんが担当しています。
ヤマサキ:三木くんとは大張くん経由でとても魅力的な役者さんだと聞いていたのですが、直接会ったのは『薄桜鬼』の監督依頼を受けた直後、2009年8月30日に杉並公会堂大ホールで開催された『金田伊功さんお別れの会』の後、大張くんと3人で飲みに行った時でした。
私がカナメプロ時代にお世話になった金田さんとの思い出話しや大張くんたちメカ好きアニメーターに金田さんが与えた影響など、結構マニアックな話で故人を偲んでいたわけですが、三木くんは私たちの話を食い入るように聞きつつ、ファンの立場から見た金田作品の魅力などを熱く語ってくれて、想像以上に作画ヲタだったことを知り嬉しくなりました(笑)
その時、ふたりには「三木くんが土方を演じているゲーム【薄桜鬼】をアニメ化するらしくて、その監督をやると思う」と話した気がします。三木くん自身はその時点ではまだアニメ化の話を聞いていなかったようで「えっ!もうアニメ化するんですか?」と驚いていました。
役者としての三木くんは二枚目からエキセントリックな敵役、シリアスからギャグまで、どんな役でも安心してお願い出来る方ですが、中でも土方のようなキャラは本当に上手いと思います。
薄桜鬼のメイン隊士役の役者さんたちは三木くんだけでなく皆さん上手くて、現場もとてもいい雰囲気で収録できていました。
アフレコ後は新人の役者さんたちも誘ってよく皆で飲みにも行っていましたが、コロナ以降はキャスト全員で一気に収録する事が減ってしまい、若手の役者さんが音響監督や演出家の話を聞いたり、ベテランの技を直接見聞きする機会が減ってしまった事はとても残念な気がします。
——ヤマサキ監督にとって、『薄桜鬼』というアニメーション作品は、どのような存在になっていますか。
ヤマサキ:薄桜鬼という作品はけっこう史実に忠実に時系列が展開していくんですよ。
さらにドラマの舞台が現存している等、嘘がつきづらい作品だったので、ならばトコトンそれらしい画面作りをしようと考えて取り組みました。
ライティングやレンズの画角、露出、被写界深度の調整など画作りをどれくらいリアルにすれば作品の雰囲気を作れるかを試行錯誤し、関係スタッフには他作品ではやらないような苦労をお掛けしました(苦笑)
劇中の事件で日時が判っているシーンでは月齢を細かく調べ、画作りするために美術さんに月の形や高さの修正を何度もお願いした気がします。
——ありがとうございました。それでは最後に、最近の活動内容を教えてください。
ヤマサキ:2023~2024年は『あんさんぶるスターズ!!追憶セレクション』と『精霊幻想記2』の制作に追われていましたが、いまは次回作の準備を行いつつ、お世話になった会社さんの作品のお手伝いをしている感じです。
——今回も本当にありがとうございました。では、第3回アニマン祭のご登壇、よろしくお願いします!
■ヤマサキオサム(山崎理)
アニメーション監督、プロデューサー、演出家、アニメーター。1962年、熊本県生まれ。アニメーターとして活動後、1984年に大貫健一、大張正己、西井正典らと「南町奉行所」を結成。1987年にはOVA『戦国奇譚 妖刀伝』で監督デビュー。以降、『ギャラリーフェイク』『地球へ…」など多数の作品を監督。TVアニメ『薄桜鬼』ではシリーズを通して監督を担当している。