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クリエイターインタビュー 第2回 前編 株式会社J.C.STAFF 代表取締役 宮田知行

©タツノコプロ

偶然だったアニメ業界入り

——そこからどういう道筋でアニメーション業界に行かれたのですか。

宮田:バキュームカーの仕事を2年くらい一生懸命やりました。間違いなく社会に貢献する仕事ではあったのですが、やはり映画の仕事がしたかった。そこで新聞の片隅で見つけたシナリオ講座に通いながら映画会社への就活をしたのですが、その頃の日本映画は往時の輝きを失い斜陽産業となっていて、ライター志望者などが入れる隙間はありませんでした。

——なんとか「業界」に入ろうと模索していたのですね。

宮田:そのころ、福生(東京都福生市)のベトナム帰還兵跡の住宅(通称外人ハウス)に住んでいたのですが、たまたま近所にタツノコプロでキャラクターデザイナーとしてブレイクしつつあった天野喜孝さん(当時天野ちゃんと呼んでいた)が住んでいて、彼の紹介でタツノコプロ企画文芸部の入社試験を受けられることになったのです。

——映画志望だったはずが、アニメ制作会社に。

宮田:元々僕は実写志向で、それを知っていた天野ちゃんも「アニメで良ければ」という軽い感じの声かけだったのですが、当時放送されていたタツノコ作品「タイムボカン」を見てビックリ! そこには実写映画とは異なる面白さと視聴後の爽快感があったのです。
3回くらいの面接があり、合格連絡を貰った時は嬉しさよりも、やっと映画作り、それも望んでいたシナリオ関連の仕事に就けると呆然とした記憶があります。

——アニメキャリアのスタートは「文芸部」だったんですね。

宮田:最初は雑用オンリーでした。僕が文芸部にいたのは2年ほどでしたが後輩はゼロ。新人が入ってこないから雑用は全て僕です。アフレコ用の録音台本原稿起こしから始まり、次週の予告書き。それから本読み用シナリオコピー、アフレコ用録音台本印刷発注、シナリオ発注の為の資料集め等々、雑用多数。特に苦手だったのが掃除とお茶くみです。文芸部は新企画を作る部署ですので秘密が多く、他の部署の人は入ってこれないので(総務部員さえも)、掃除、お茶くみなどの下っ端仕事は全部僕でした(笑)

※本(台本)読み:元は演劇用語。本来は作者や脚本家が出演者やスタッフに台本を読み聞かせることを意味したが、現在では出演者が本番前に集まり、それぞれ自分の台詞を読む「読み合わせ」も「本読み」と呼ばれる事が多い。

——雑用はともかく(笑)一般の方には、この部署がどのような仕事をしているのか解りづらいと思います。

宮田:正式には企画文芸部という部署です。メインは文芸部長を中心に文芸部員でオリジナル企画をまとめ上げ、企画書を作成します。『科学忍者隊ガッチャマン』『みなしごハッチ』等、当時のタツノコ作品はほぼオリジナルで、企画文芸部が実質的に原作者でした。
次に重要な仕事は文芸担当です。文芸担当というのは事前にまとめたシリーズ構成に沿って話数毎にそれぞれの脚本家に発注し、何回かのリテイクを通し決定稿まで導く仕事です。文芸担当段階で決定稿になったものを、更にTV局編成部で関係各位担当者が一堂に会して行う本読みというチェック機関で新たに様々なリテイクが出て、再度ライターと共に直すという大変ストレスがたまる仕事です。脚本という作品の根幹を司る仕事なので責任が重く、当時はほぼ一年作品(4クール)なのでシナリオ52本という長丁場でした。そのため、ポイントの話数は企画から加わった文芸部員が直接書くことも定例化していたので、文芸担当になるには自分がシナリオを書けなければいけない。それがタツノコプロのスタイルでした。

——文芸部で鍛えられたのですね。

宮田:色々とすごい環境でしたね。業界でも有名な鳥海尽三部長をトップに完全な階級社会。何時になろうとも部長が帰ると言うまで部下は待機。だから友達と約束も出来ない。それまで自由に過ごしてきた僕からしてみれば「なんなんだこれは」(笑)

※鳥海尽三:脚本家。日活で映画の脚本に携わった後、虫プロで『鉄腕アトム』などを担当。タツノコプロでは『科学忍者隊ガッチャマン』『新造人間キャシャーン』などのシナリオを担当し、タツノコプロの黄金時代を築いた。2008年没。

ただ、鍛えられたのは事実です。まずどんな雑用でも手を抜いたら怒鳴られる。一生懸命やったとしても結果が駄目なら無視される。相手にされない。仕事の厳しさ、責任の重さを徹底的に刷り込まれました。シナリオひとつ取っても最初の頃は「駄目。書き直し」「どの辺を」「全部!」「いつまでですか」「当然明日だろう」というような調子で一晩で書き直しが続き、やっと「よし決定稿!」と言われ喜んだのですが、リテイクを重ねてるうちに自分の言い回しやセリフはほぼなくなっていたりしてました(笑)。いずれにしても僕の原点はタツノコプロ文芸部です。「仕事は頑張ってますだけじゃ駄目なんだ」「会議に出たら意見を言え。アイディアが無いなら会議に出るな」など。本当に感謝しています。

——しかしその後、プロデューサーに転身されます。

宮田:その原点になったのは、今でも冷や汗もので思い出すのですが、オリジナル企画をTV局、代理店、スポンサー等にプレゼンする竜夫社長のカバン持ちとして、企画書、キャラ設定、イメージボードなどを持ち、某代理店の綺麗で大きなプレゼン室に行ったことです。そこには30名ほどの偉そうな人たちがいて、企画書を配り、イメージボードなどを並べ、いよいよ本番の説明に入る時、突然、竜夫社長が「この作品の企画者の一人である宮田から説明させます」ガ~ン!! その後は何がどうなったか今でも思い出せません。気が付いた時は銀座の有名喫茶ルームで社長に慰められていました(笑)入社1年後、27歳の時でした。その後、新企画プレゼンの多くは自分の仕事になり、後のプロデューサーに繋がったのだと思います。

1977年、竜夫社長が他界し、鳥海部長はじめ文芸部の先輩たちがタツノコを退社してしまいました。文芸部は企画室と衣替えし、僕と柳川さんという先輩の二人だけで頑張っていました。企画室の仕事として企画プレゼンなどを受け持ち、徐々にスポンサーにも食い込むようになりました。この頃がめちゃくちゃ忙しく、ストレスで胃潰瘍になり胃の2/3を切除しましたが、術後10日目には出社してました。次に円形脱毛症になり、生え揃うまでマジックで塗ったり(笑)、続いて疲労から急性肝炎になり黄疸が出て入院したりして大変でした(例えば新企画を作るために箱根の旅館に缶詰になっていたときも朝一番のロマンスカーで都内に出て、局、代理店、スポンサー等と打ち合わせし、夜、箱根に戻り徹夜で企画書作り等をしていた)。
そして1979年、やっと開拓した超合金のポピーがメインスポンサーの『闘士ゴーディアン』でプロデューサーにつきました。当時29歳、アニメ歴3年半くらいでした。
その後『ダッシュ勝平』『科学忍者隊ガッチャマンF』『とんでも戦士ムテキング』『黄金戦士ゴールドライタン』と続きました。その間、プロデュース作品以外の『怪盗ルパン813の謎』『ゼンダマン』『タイムパトロール隊オタスケマン』『海底大戦争』などの企画作りに全て関わっていました。まさにジェットコースターに乗ってしまったようでした。

※ポピー:かつて存在したバンダイグループの玩具メーカー。『闘士ゴーディアン』『黄金戦士ゴールドライタン』の「超合金」はポピーより発売された。1983年にバンダイグループの再編に伴いバンダイ本社に吸収合併。2003-2007年に存在した「新」ポピーはバンダイグループ内の別系統会社。

——プロデューサーとしての宮田さんのお仕事として、印象深いものはありますか。

『ゴールドライタン』ですね。プロデューサーとして少しずつ自信を持ってきた僕がメーカーとの折衝はもちろんですが、現場スタッフの選定も大きく関わり、まず監督に当時タツノコ若手演出四天王の一人と言われていた真下くんを抜擢し、スタッフも社員、フリー問わずやる気あふれる若手を起用したこと。それからスタジオ内にゴールドライタン部屋を作り、当時スタジオは横割りだったのですが、監督から仕上検査までひとつの部屋に集めて集中出来る縦割り体制を作って、皆で作品に向き合ったこと。今でも一番楽しかった思い出かな。当時31歳でした。

※タツノコ若手四天王
真下耕一:主な演出作に『タイムボカン』『とんでも戦士ムテキング』、監督作に『ゴールドライタン』『ノワール』『ツバサ・クロニクル』『へうげもの』など
押井守:主な監督作品に『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』『機動警察パトレイバー』シリーズ、『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』『イノセンス』など
西久保瑞穂:主な監督作品に『みゆき』『赤い光弾ジリオン』『天空戦記シュラト』『ジョバンニの島』など
うえだひでひと:主な演出作品に『タイムボカンシリーズ ヤッターマン』『科学忍者隊ガッチャマンII』『夏目友人帳』、監督作に『超ロボット生命体トランスフォーマー マイクロン伝説』など

——その『ゴールドライタン』終了後の1982年にタツノコプロを離れられました。

宮田:正直疲れました。先ほど言ったように病気をものともせず夢中で突っ走った5、6年でしたが、徐々に放浪晩年の孤独感と似たような感覚に陥ってしまったのかな。一旦ジェットコースターを降りました。今にして思えばプロの仕事人になれていなかったのでしょう。

——その後キティ・フィルムに入社。あの『みゆき』のプロデューサーとなります。

宮田:タツノコを辞めた後あちこちから誘われたのですが、なるべくお世話になったタツノコ関連の会社を避けるべきと半年ぐらいのんびりしていました。その後、全く畑違いのキティ・レコードを母体としたキティ・フィルムからの誘いがあり入社しました。懲りずにまたジェットコースターに乗ったのかな。
入って少ししたある日、新宿ゴールデン街のアニメ関連の業界人のたまり場的飲み屋で「宮田、あだち充の『みゆき』をやらねえか」と、友達の友達は友達として、親しくなったちょっと口の悪い先輩の人に声を掛けられたのが始まりですね。この方は『週刊サンデー』などのグラビア企画を編集している会社の経営者で、あだち充先生のエージェントみたいなこともやっていた人です。

※新宿ゴールデン街:東京都新宿歌舞伎町にある飲食店街。終戦後の闇市にルーツを持ち、作家、演劇、映画、報道関係者などが集まることで有名。近年は観光地として注目されることも多い。

——当時のあだち充先生といえば『みゆき』で漫画ファンを惹きつけ、『タッチ』の連載も始まっていて、すでに漫画読みの中ではスーパースター。これがアニメになれば大爆発は確実という状態でした。当時のキティ・フィルムはすでに『うる星やつら』など、小学館作品を手がけて大ヒットしていましたから、さらにもう一手ということだったんですね。

宮田:思春期から大人になる一歩手前の不安、戸惑い、そして輝き、青春期少し前、ピュアで、繊細で、優しくて、寂しくて……という世界観がとても好きで、大きなタイトルにビビりながらも思わず「やらせてください」。

——転職して一気に大チャンスをつかんだのですね。

宮田:早速会社に掛け合ってキティ・フィルム三鷹スタジオを開設し、メインスタッフは既にタツノコを辞めていたゴールドライタン時代のスタッフを集めました。監督はタツノコ若手四天王の一人西久保瑞穂くんを呼び制作を開始した。主役のみゆきにはまだ中学生でお母さんに連れられてオーディションにきた新人を抜擢した。のちの荻野目洋子です。主題歌は阿木燿子さん作詞、鈴木キサブローさん作曲の『想い出がいっぱい』。いきなりヒットチャートの2位に入ったりして幸先好調、アニメの主題歌としては画期的なことでした。しかしここで事件です。なんと直後に『CAT’S EYE』(杏里・北条司原作『キャッツ♥アイ』アニメ版前期OP)が出て逆転されてしまいました(笑)
シリーズ構成、文芸担当はプロデューサーである自分が兼任し、西久保監督はじめ気心の知れたスタッフで全力投球で頑張りました。しかし作品評価は芳しいものではありませんでした。

——当時はそうだったかもしれませんが、今となっては第一話の演出など、後の作品に受け継がれる革新的な手法がいくつも『みゆき』では投入されていると評価されています。

宮田:逆に大好評だった『タッチ』のシリーズ監督のときたひろこさんは、『みゆき』のメイン演出だったんですよ。だからそういう影響・印象があるのは当然といえます。

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