クリエイターインタビュー 第2回 前編 株式会社J.C.STAFF 代表取締役 宮田知行
クリエイターインタビュー第2回は、J.C.STAFF代表の宮田知行さん。J.C.STAFFは、武蔵境駅そばに本社を構えています。タツノコプロの文芸担当・プロデューサーからはじまり、キティ・フィルムでは『みゆき』などを手がけ、その後、J.C.STAFFを設立し、現在では日本アニメの主力の一端を担う会社に成長させるなど、長期にわたって活躍をされてきました。
キャリアが始まるまでの意外な経歴
——宮田さんはどちらのご出身なのでしょうか。
宮田:僕は隣町の保谷市(現西東京市)育ちで高校は都立武蔵高校、まさにこのあたり(武蔵境)が地元です。都立武蔵はまあまあ進学校なのですが、僕は大学にいかずに代々木にある山野高等美容学校で美容師を目指しました。
※山野高等美容学校:現在の山野美容専門学校。日本美容界の先駆者で、パーマ技術を広めた山野愛子が設立した専修学校。後述の須賀勇介は同校の出身。
——美容学校とは珍しいですね(笑)
宮田:話は長くなりますが(笑)、両親の仕事の関係もあって週に何日か朝、おにぎりとおやつのラスクと共に映画館に放り込まれ、夕方の迎えまでひたすら映画を観ているような子供時代でした。東映チャンバラ物や怪獣物から始まり、その後、成長と共に「裕次郎」「小百合」に代表される青春物の日活、『若大将』『駅前』『クレージー』シリーズなど娯楽の東宝、「雷蔵」と女優文芸の松竹と映画漬けの日々でした。武蔵境にも映画館があったので、武蔵高校時代も時々中抜けして観に行っていました。そんな時、『ファイブ・イージー・ピーセス』『イージー・ライダー』『卒業」『ジョンとメリー』など等身大の若者を描いたニューシネマに出会い、衝撃を受けました。ハリウッドに行きたい!そんな作品の制作に関わりたいと悶々としていました。
その頃確か『平凡パンチ』の記事だったと記憶していますが、須賀勇介さんという日本人男性美容師がハリウッド映画界で大評価を得ているというのを知り、「美容師になればハリウッドへいける」と。まずは美容師としてアメリカへ行き、そこから映画界への転身を狙うつもりでした。
——高校生の時点で、かなり戦略的だったのですね。
宮田:全然!荒唐無稽の思い付きに等しいですよね。第一、まず美容師になれませんでした。挫折です(笑)あの世界は厳しいので……。その後は、当時の若者の普通のコースで、軽く学生運動やべ平連などの反戦活動に絡んでから、そうそう、新宿西口広場でギターを抱えて反戦歌を歌ってました。結局定職に就かずヒッピーのように「放浪生活」に入りました。
※ヒッピー:1960年代のアメリカから世界に広がった、若者のムーブメント。既存の社会や価値観を否定し、「ラブ&ピース」を提唱し自然回帰を目指した。音楽、アート、ファッションに大きな影響を残した。
——今の人には想像もできないでしょうが、当時としては若者のよくあるひとつのスタイルですね。
宮田:5万円位で手に入れたボロ軽自動車に寝袋とか積んで日本中を放浪しました。ヨーロッパ帰りの友人から手ほどきを受けた手作りアクセサリーを売って、放浪中の生活費にあてていました。旅から旅へとまるで「寅さん」のような感じでしたね。知り合いが出来るとしばらくその街に留まり、安心や暖かさに埋もれそうになると、これじゃ駄目だと意を決してまた一人で次の街を目指す、そんなことの繰り返しだったかなぁ。「俺は意思を貫いて生きてるぞ」という高揚感とたった一人でポツンといる孤独感と寂しさ、この狭間でした。
そんな根無し草のような生き方を続けていた時、雪が降り込む寒い夜に富山の総曲輪通りで会った老夫婦が転機になった。話すと長いので割愛しますが「とにかくまともに生きなければ」、次に「何か人の役に立ちたい」「人にあてにされる自分になりたい」と思い東京に戻り仕事を探しました。23歳くらいですね。ただ、そんな生活をしていたので、学歴もキャリアも資格もない、運転免許証以外なにも持っていない(笑)それでやっとバキュームカーの仕事を見つけました。
当時はまだ、雨が降ると川沿いや低地では糞尿があふれ出してめちゃくちゃになってしまう地域がありました。入った会社はそういう場所の処理もやっていて、これは人の役に立つ仕事だと思い、一生懸命働きました。背中に絵が描いてあるような人がいたり、なかなかすごい人が多い会社でしたが(笑)
——これも今の若者にはわからないでしょうが、1980年代前半くらいまでは、東京でも下水は完備されておらず、地域によってはまだ、専用の汲み取り車両「バキュームカー」が、各家庭や地域を回って排泄物を集め、処理していたんですね。これは説明しておかないと(笑)